それは、北海道の企業誘致から始まった。
旧産炭地と牧草の町「白糠町」
誘致した企業が、地域に新しいインフラをもたらした。
昭和63年
北海道の企業誘致により横浜の株式会社テクニカルが北海道への進出を決定した。
立地場所の選定にあたり、代表の中川はスタッフとともに道内各地の視察に出かけ、最終的に白糠町に決まったのだが、この決定要因は「光回線」だった。
当時の新聞記事にも、「サテライトオフィスとして白糠に建設」とあるが、21世紀のオフィスを支えるには、何よりも通信インフラが完備されている事が、重要なポイントなのだ。
道内の各候補地とも、道路や水道などの従来インフラは十分完備されていた。
しかし、テクニカルとしては道路網より通信網を重視していたが、通信網の高速道路と言われる光回線が提供される見通しはなかった。
そんな中、白糠町においては、当時のNTT釧路支店責任者が将来における通信網の必要性に理解を示し、光専用回線の提供を検討する事になった。ただ現実問題として、NTTの投資で光回線を白糠に敷設するには、釧路から36kmもの間に光ファイバーを新規に敷設しなければならずこの投資で、テクニカルだけが利用するには、あまりにも投資コストの回収という面で、見合わなかったのである。
行政トップの決断
平成元年の暮れも迫る頃、タイムリミットから誘致計画は頓挫寸前であった。
町の誘致担当者へは、進出計画中止の打診が内々にあった。
その時、「高速通信がくれば、町全体で使う。」町行政トップの強い意思表示がNTTに通じ、牧草地のど真中に、光ファイバーの提供が決まったのだった。
平成2年 白糠町の太平洋側に位置する高台1.5haを取得し、5億円の投資プロジェクト始動の準備が整った。
ふるさと財団事業に認定
予算が決まり、融資の実行段階において地元金融機関が、突然に融資を断ってきた。従来の進出企業に対しては、問題なく資金を提供していたが、白糠へのハイテク企業融資は実績もなく、担当者が事業を理解する事ができなかったのである。町を上げての地域振興としても、立ち入れない領域がある。
役場内には重い空気が流れていた。
「ふるさとの案件にできないか?」
政府の説明会に出ていた別の担当者が提案した。「ふるさと」とは、さきの竹下内閣において「ふるさと創生」が内政の最大の旗印とされて以来、民間の事業活動にも、国がこれを援助する形がとれる様に、(財)地域総合整備財団(通称ふるさと財団)が設立されたのだ。
テクニカルは、全国の案件中から、厳しい審査に通り、無利子のふるさと融資が得られた。さらに釧路白糠工業団地を有する地域振興整備公団も協調融資として、牧草生い茂る白糠町坂の丘に、コンピュータ会社がついに誕生した。
白糠町
白糠町は、道東釧路管内に位置する人口13000人の町。釧路空港や、釧路白糠工業団地の大型施設を有している。
そして、北海道における最初の石炭採掘の始まった由緒ある町でもある。
立地場所に選ばれたのは、町の太平洋に面する坂の丘と呼ばれる高台で、地元のモニュメントもあリ、公園化構想もあったと言われるほどの景勝地だ。坂の丘の先端に立つと、はるか水平線を望む事ができる。その昔、アイヌの見張り台があったというのも頷ける。建物は、鉄筋コンクリート造の3階建て延床1000㎡で、外壁には、特殊な自然石塗装が施されており、海辺の立地で長期間の風雪に耐えられると言う。「大自然の中にハイテクオフィス」のコンセプト通り、3階からの見晴らしは、想像以上である。
2003年 ユビキタス
今、オフィスには人がいない。インターネットの進化と、ネットワークインフラは日本の産業界に劇的な変化をもたらした。進出当時にドラマティックな展開で、坂の丘まで敷設した光ファイバーだが今ではそれを遥かに上回る高速回線が、ブロードバンドと呼ばれ、自宅で手軽に利用できる様になった。社員は、それぞれ好きな場所からネットワークに参加し、自分の責務を果たしている。海外にいても、北海道にいても所在地は問題ではない、ネットに接続できるかどうかが問題なのである。「牧草地のど真中に高速回線」、15年前に笑われた構想が道内各地で実現している。だがこれらもまだ、来るべきユビキタス社会の入り口にもすぎないのである。
白糠町坂の丘、そこは今、最先端の機械が放牧されているだけである。
白糠町は、広大な釧路白糠工業団地を有しているが、当時の土地を広く利用する産業型から、ソフト的な産業に国内の構造が変化するのではないかと思い、コンピュータ企業の誘致をはじめた。昭和63年に、テクニカルが白糠町工業団地への進出を検討した時、空港や港へのアクセスでも自信をもっていた。しかし、道路より必要な通信回線がないと、進出できないと言う。当時役場の誘致課長達も訳がわからんかったと思う。私もだ!ただ、勘と言うか、政治と同じでビジョンがあったから、全面的に支援する事にしたのさ。まさに、インターネットの夜明けだったんだ。今の北海道を変えるには、新しいものをどんどん消化しなくちゃね。それが忘れかけている、開拓者精神だと思う。 昭和47年の初当選から平成8年までの6期24年間、白糠町長として町の発展に寄与。